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Barnens ö 子供たちの島/ひと夏の体験

スウェーデン映画 (1980)

1981年のベルリン国際映画祭で金熊賞の候補となり、スウェーデン映画協会のゴールデン・ビートル賞で作品賞・監督賞を受賞した映画。しかし、こうした状況は、1980年代初頭という時代と、この映画のもたらした映像的衝撃がもたらしたものであろう。同名原作は、映画化の4年前に出版されたP.C.ヤシルド(Jersild、1935年~)の小説。ヤシルドは、『生きている脳』(1980)、『洪水のあと』(1982)が日本でも翻訳出版されている。前者は、人の頭から脳を取り出し培養液に漬けて生かすと、どういう事が起こるかを扱った小説。後者は、核戦争後に残された人類を襲う、残留放射能による苛酷な運命を何の希望もなく描いた小説。非常に真面目な作家だ。ところが、その作者の原作を元に映画化されたこの作品を、オーストラリアが2014年2月に児童ポルノとして認定し、販売もしくは公開の場で上映した場合10年以下の懲役、もしくは、27万豪ドルの罰金を課した。しかし、その原作が「ポルノ小説」でないことは、原作者の他作品を見れば明らかである。ならば、どうして映画版が問題視されたのか? 監督と脚本を手がけたKay Pollakに責任があるのか? 原作は、主人公のレイネの行動よりも、彼がどう思うかについて、より多くのページを割いている。2つ例を引こう。10章の中ほど。「彼は1965年に歩くことを覚え、1966年にはちゃんと話すことができ、9回目の誕生日の1969年9月9日には身長が69インチだった。こんなことは家族アルバムを見れば分かる。しかし、彼の内部はどうなっているんだろう? 内部には「芯」があるのかな? 人間には芯があって、それは高密度なんだろうか? レイネが最も芯を感じるのは目の奥で、頭蓋骨に1,2インチ入ったところ、それは鼻まで続いてる。でも、芯は動く。例えば、頭痛がすると、芯は頭蓋骨いっぱいに拡がり、今にも破裂しそうになる。コーラの大瓶を2本飲むと、おちんちんの付け根の後ろで芯がドンドン叩き、腫れ上がって飛び出そうとするので、脚を組んで止めないといけない。誰にでも、こんな芯はあるんだろうか? もし、他の人が存在するなら、そうかも。ただ、レイネは、他の人が存在するかどうか、あるいは、外の世界が本当に存在するのか、まだ決めかねている。彼が、この世で唯一の存在だと考える方が、ずっと心地よかったから」。次は、その直後。「神は存在するか? ママは、神なりイエスなりが存在するかどうかは、彼なり彼女なり、各自が決めればいいと言ってた。ママについていえば、ママはいないと思ってる。それは、もし存在するなら、戦争なんかなかったはずだから。神は無敵だろ? それなのに、おばあちゃんは、神には戦争の責任はないと言ってた。悪魔と邪悪な人々が戦争を始め、神は深く悲しんだ だって。神は、男の邪悪さがあまりに強いことを悲しみ、もう許してくれないかも って。レイネの意見では、それじゃあ、神は「ぼやき屋」じゃないかというものだった。レイネは、ママ同様、神は存在しないと思っていた。だって、もし存在したら、聖書を信じなくちゃいけない。聖書たるや、お粗末な物語なのに… 男の創造だってそうだ。神は、まず地球を創り、動物を創り、6日経って、粘土の塊からアダムという名の生きた泥人形を創り、アダムのあばら骨からイヴを創った。そしてアダムとイヴが、ペニスとヴァギナを見つけた時、皮と肉の永久機関が始まったのだ。聖書に出てくる人は誰であれ、神自身にしろ、想像力がなさすぎる。あのダーウィンの方が、ずっといい。たんぱく質の分子から始まって…」。この後、延々と続く。こうした、子供の視点から、疑問に思ったことを並べるという発想は、普通の小説ではなかなか見られないが、原作は、物語とレイネの思いが半々で進行する形を取っている。もし、映画でこれをしようとすれば、独白を流すしかない。映画版でも冒頭で少しは独白が流れるが、しだいに筋を追うだけとなり、映画の中間点で 「まだ原作の21章までしか描いていない」 と分かると、映画の後半は原作のポイントだけなぞるだけとなる。その後の扱いも「ぞんざい」で、小説の中でも一番「意味のない」ドラッグスターの連中との遭遇(3839章)に15分も割き、逆に重要なノーラとテオとの場面(4146章)には、僅か3分しか割いていない。これは原作の曲解であり、冒涜ですらある。原作の映画化は、完全に破綻し、上っ面の模倣と、不合理な改変・曲解と、裸体に対する偏愛に満ちた愚作である。

もうすぐ12歳になるレイネは、水中での息止めの記録を作ることが夢。趣味は、テープレコーダーに自分の意見を吹き込んだり、他人の話を録音すること。そして、定期的に続けていることは、自分が「ピュア」であることを確かめるため、陰毛が生えていないことを確かめること。そんなレイネには、夏休みに大きな試練が待ち受けていた。シングルマザーの母が、2ヶ月間、仕事のために家を開け、その間、レイネは、『子供の島』というサマーキャンプに行かされることになっていた。しかし、そんな所に行きたくないレイネは、行ったフリをしてアパートで暮らすことに決める。最初は順調に行くかと見えた試みだったが、すぐに、食べるものも、それを買うためのお金もないことに気付く。レイネは、葬儀の花輪につけるリボンに慰霊の文字を書くスタジオに雇ってもらい、そこで働いている車椅子の女性にも気に入られる。一方で、困ったことも起きた。母と親しかったスティーグという男が、母に会いにアパートを訪れ、レイネの帰宅を待って中に入り込んだのだ。そして、レイネが持っていた鍵を奪い取ってしまう。困ったレイネは、屋上から入ることで暮らしを続けることができた。夏至祭の日、スティーグは、レイネ母子を友だちのヨットに招待するが、レイネが嘘をついていたので、実際にヨットに行ったのはレイネ一人。その不始末を友だちに強く責められたスティーグは、レイネをヨットから突き落とす。それを救ったのは、一緒に乗っていたノーラだった。レイネが働いていたスタジオのオーナーには、ロクでもない息子がいて、働かずに高級車を乗り回し、ローン返済のため、スタジオの給与用のお金を奪い取る。そして、レイネの首を切れと言い残して去る。職を失ったレイネは、ストックホルム市内を練り歩く劇団に同行して気に入られ、ビョルン・ボルグの役をもらうが、髪を短く切るよう要求され、短髪になった顔を 大好きだったスター女優に笑われて劇団を逃げ出す。レイネが人気(ひとけ)のあるはずのない所で寝ていたため、警察に保護され、鍵を持っているスティーグのアパートまで連れて行かれると、何と、そこには、遠くで仕事をしているハズの母がいた。怒ったレイネは、母の謝罪を拒絶し、自転車に乗って逃走する。向かった先で偶然出会ったのは、一種の暴走族の集団。しかし、子供のレイネは相手にされない。おまけに、そこで出会ったスタジオのロクデナシ息子は、レイネに頼みごとをして、そのお礼に人里離れた場所に放り出す。何とかストックホルムに着いたレイネは、ヨットで親切にしてくれたノーラを訪れ、優しく迎え入れられる。2人は、同じ日が誕生日なので、その記念に外航フェリーに乗るが、その中でレイネは「乗客が船内で買い求める免税品の酒を盗む」不良グループに巻き込まれる。そして、不良グループにバカにされたレイネは、潜水記録に挑戦することで見返そうとする。航海を終え、アパートに戻って来たレイネは、一回り成長したが、幸いにまだ「ピュア」なままだった。あらすじの作成にあたっては、英語字幕は使いものにならなかったので、フランス語字幕を使用した。対比する原作には、英訳本(ネブラスカ大学出版)を使用した。

単独主役のトマス・フルーク(Tomas Fryk)は、1966年9月18日生まれ。撮影は1979年7-10月なので、撮影時12-13歳。12歳間近の11歳という原作の設定より ちょうど1歳年上。子役時代はこれ1作で終わり。『Splittring』(1984)でも主役級だが、もう大人と言っていい青年。映画人生は2001年で終えた。


あらすじ

レイネは浴槽の中に潜って息を詰めている(1枚目の写真)。何秒潜っていられるかを試しているのだ。彼が好きな本は、ギネスブック〔原作では、「マンモスブック世界記録」が愛読書。そこには様々な記録が書かれている。27章には、一例として、「断食世界一: 固形物を摂取せずに最も長く生きた男: 382日」などの記載がある〕。外では、母が、「レイネ、ドアを開けなさい!」と叫んでいる。我慢の限界にきて水から出たレイネが時計を見ると、「1分28秒」。レイネは、「ママ、新記録だ!」と喜んでドアの鍵を外す。「何してたの?」。レイネは、すぐにテープレコーダーを母の前にかざす(2枚目の写真)。再生した音声は、「僕は、3分を目指してる」。映画の設定では、レイネは自分の発言や、相手の言葉を何でも録音し、自分で話す代わりに、再生して聞かせるのが趣味。「そんな実験やめなさい」。再生音声:「ギネスブックに出た最初の子供…」。「危険なのよ。溺れちゃうわ。サマーキャンプに行っても、しないって約束して」。「ママが無理矢理行かせるんだ」。「おばあちゃんの家で夏休みを送るの嫌だって言ってたじゃない」。「キャンセルしてよ」。「もう寝なさい。明日は、朝早く出るんだから」。その時、居間で音がする。「スティーグよ。すぐ帰るから」。「ママに訊きたいんだ」。「もう遅いでしょ」。レイネは、録音マイクを母に向ける。「神は存在する?」(3枚目の写真、矢印)。映画のこの部分は、すべて原作とかけ離れた創作。原作は、レイネがサマーキャンプに出かける朝から始まる。映画のこのシーンは、出発の前夜だ。原作では、レイネは、息止め記録に挑戦などしないし、テープレコーダーも持っていない。唯一原作と関係するのは、最後の、唐突な「神は存在する?」という質問。このシーンだけ観ると唐突だが、原作では、解説で引用したように10章で神について持論を述べている。映画のこの質問は、原作に忠実であることを示したかったのだろう。しかし、上っ面の一言だけで「レイネの複雑な心の内」を現すことはできないので、完全な失敗に終わっている。
  
  
  

母は、溶室を出て行くレイネに、「明日は駅まで送りに行くわ。夏中会えないから」と言った後、居間でスティーグと会っても、「ママもいなくなるって、言わないで」と念を押す。レイネが居間を覗くとスティーグが 何もせず片隅に座っている。レイネは そのまま居間に入って行き(1枚目の写真)、TVを点けてソファに座る。スティーグ:「ベッドに行くんじゃないのか?」「明日から、サマーキャンプなんだろ?」。スティーグが何を訊いても、レイネは無視して答えない。そこで、スティーグは、ありもしない「ダイナマイトで粉々に飛び散った男」の話をする。レイネはテープレコーダーのマイクをスティーグに向けて録音を始めると、耳を塞ぐ(2枚目の写真、矢印はマイク)。その生意気な態度に、スティーグは、「このクソガキめ」と呟くと、50クローネ札〔今の7000円くらい〕をレイネに見せる。レイネの反応は早かった。スティーグをバカにするより、50クローネの方が大事だ。彼は、テープレコーダーを止めて立ち上がると、スティーグの前に行く。スティーグは、札をレイネの方に出すが、レイネが取ろうと手を伸ばすと、さっと引っ込め、「『僕は、タチの悪い嫌なやつです』 と言え」と命じる(3枚目の写真、矢印は札)。レイネは、スティーグが油断している隙に札を奪い取る。そして、「ママは、あんたの家にだけは行かないよ」と憎まれ口を叩くと、部屋を出て行く。ここも出発の前夜なので、原作には存在しない。ただ、スティーグが50クローネ札をひらひらさせて、レイネに自分を卑しめる言葉を言わせようとする場面は13章にある。そこでは、レイネは、お金欲しさに、言われた通りにくり返す。映画のように、黙ってお札をかすめとるような乱暴なことはしない。
  
  
  

1976年6月14日、早朝、レイネは目が覚める。独白が入る。「作戦1。ママを駅まで行かせない。どうする? 遅くまで寝せておけばいい」。レイネは母のベッドの脇に置いてある目覚まし時計を止める(1枚目の写真、矢印は目覚まし)。レイネは、独白を続ける。「ママ、起きて。ママは言う。『今、何時?』。僕は言う。『7時10分前』。ママは言う。『電車は何時だった?』」。その時、母が目を覚ます。「電車の発車時間は?」。「7時15分」(2枚目の写真)。「間に合わないじゃないの。何も用意ができてない」。「僕なら大丈夫。1人で行くよ」。場面は変わり、レイネはスケボーに乗り、母がレイネの鞄を持って駅まで同行する。「レイネ、ウッデバラ〔ストックホルムの西南西370キロ〕には連れて行けないの。お仕事で行くんだから、つまらないだけよ」と、こんな時に話す。そして、ソーレントゥーナ駅〔ストックホルムの北北西12キロのニュータウンの中央駅〕のホームまで送っていく。母は、動き出した電車の窓に「SKRIV(〔手紙を〕書いて)」と指で描く(3枚目の写真)。原作の冒頭にあたる部分。ほぼ原作通り。ただし、母は、時間がないのでタクシーを呼ぶ。レイネはタクシーのことは予想してしなかったので慌てる。映画のようにしていては、とても電車に間に合わない。それに、ウッデバラの話を 出発間際にするのも変だ。原作では、「どうしても駅まで送らなきゃ。2ヶ月も会えないのよ」と言う。この方が、よほど自然だ。また、母は、10クローネを渡す。レイネはすでに10クローネ持っていたので、20クローネ〔2800円〕を持って2ヶ月のキャンプに出かけることになる〔1日あたり50円の小遣いは 信じられないほどケチ〕
  
  
  

ソーレントゥーナからストックホルムまでは5駅、時間にして16分なので、あっという間に着く。走る電車をバックに、レイネの独白が入る。「サマーキャンプの担当者様。11歳のレイネ・ラーシャンが突然息を引き取りました。だから、参加できません…」。そして、画面はストックホルムに変わる。「やあ、ママ。キャンプでは、太陽と緑がいっぱい。泳いだり、サッカーをする」。レイネは、ストックホルムでもスケボーで移動し、チェーン店に入り、ハンバーガーを注文する(1枚目の写真、矢印はハガキ)。「食べ物は最高」。今度は石の橋の手すりの上。「今夜、みんなで歌うんだ。途中は楽しかった」。キャンプ行きのバスが出ていく。「バスは簡単に見つかった」。そして、レイネは再びソーレントゥーナに戻る(2枚目の写真)。原作では、23章に当たる。こんな短いシーンなのに、なぜ2つの章も? 2章では、まず、朝8時に、レイネが、ストックホルム・コンサートホール前の石段に座って手紙を書いている。宛先はサマーキャンプ。映画と同じ。ただし、内容は違う。「レイネ・ラーシャンが虫垂炎に罹ったことをお知らせします。『子供たちの島』に行けなくなりました。もし、彼宛に手紙が来ましたら、下記宛てに転送して下さるようお願いします。敬具」。転送先は母のアパート。レイネは、母のサインも真似て書く。それが終わると、封筒に入れ、宛先を書き、切手を貼り、舐めて封をする。そして、次の手紙に取りかかる。出だしは、映画と同じ、「やあ、ママ」。しかし、そのあと、すぐにレイネの思考が始まる。例えば、「ママは、ハリエットと呼んで欲しがってる。そう知ってるのに、僕はママって書いた。2つは同じじゃない。ママをハリエットと呼ぶのは、間違ってる。でも、ママがそう決めたんだ」。原作は、レイネの「意識の流れ」を克明に追っている。そのあと、書いた内容は、映画とよく似ている。「『子供たちの島』って、ホントに凄いんだ。泳いだり、サッカーをする。食べ物は最高」。ここで筆が止まる。そして、もっと自分のことを書くべきだと考え、「今朝、足を折っちゃった」と書いてしまう。そして、考える。こんなことを書いたら、ママが心配して電話をかけてくるんじゃないかと。そこで、「今朝、足の親指を蜂に刺されちゃった。だけど、シスターが軟こう持ってから」。ここまで書いて、レイネは、実際には行っていないキャンプでの出来事を2ヶ月間もでっち上げて書くなんて地獄みたいだと思う。すると、レイネの関心は地獄に移り、「地獄ってあるんだろうか?」と考え始める。「これは、彼が、この夏に答えを見つけ出そうと思っていた疑問の1つだった」。これで2章のようやく半分。残りも同じ調子で続く。3章。10時。空腹に耐えかねたレイネは、ハンバーガーに食いつき、フライドポテトやアップルパイを含めて6分で平らげる。そのあとで、お金のことを考える。2ヶ月後の8月までどうやって食べていくか? 「仕事をみつけるか、悪賢い方法で稼ぐしかない」。取りあえず、レイネは駅に戻って、預けてきた重い鞄を返してもらわないと… 彼は、駅まで歩く途中で、ショーウィンドウを見ながら考えにふける〔映画と違い、スケボーなど持っていない〕
  
  

レイネはアパートに戻ると、いつもの恒例行事をする。それは、陰部にまだ毛が生えていないか確かめる行為だ(1枚目の写真)。1本もないことを確かめると、レイネはマイクを取り、「日々の状況管理、好ましい結果。陰のうと陰けい以外、毛は1本も見えない。6月15日15時24分」と吹き込む。そのあと、レイネは紙飛行機を飛ばし、独白が流れる。「僕は世界の一員だ。僕は好きなことを言う権利がある。誰も反論などできない」。レイネは、缶ビールを飲む(2枚目の写真、矢印は缶ビール)。そして、再び独白。「万事上手く行っている。1人でいれば、何でも巧くいく」。夜になって、レイネはTVで怖い映画を観る(3枚目の写真)。原作の45章。まず、レイネは駅から5分の所に住んでいるという記述がある。そのあと、レイネは誰にも見つからないよう、こっそりとアパートに入る。アパートには3部屋ある。母が使っている大きな部屋は、居間兼用。レイネの部屋が一番小さい。もう1つは客間で、かつては祖母がよく使っていた。そのあと、レイネの出生のことが簡単に書かれている。母の話として、1963年の秋に好きな男とできてレイネを身ごもったが、すぐに2人は合わないと分かり、別れた。だから、レイネに父はいない。レイネはビールを飲んで酔っ払い、昔から想像してきた、「ダグ・ハマーショルド(1953~61年の間、国連の事務総長)が、自分の父親だという夢」に思いを寄せる。5章では、レイネは夜の7時になって目が覚める。映画にあった陰毛検査を行うのは、このあとだ。「ペニス、イチモツ、ちんぽこ、それに、僕が小さい頃ママが使っていた、おちんちん。ペニスは、スパイスみたいに聞こえる。イチモツはナッツかな。なら、ちんぽこは? なんか壊われやすい感じだ。レンガ色の粘土でできた薄いパイプみたい〔レイネは、言葉遊びが好き〕。正しい言葉は男根だ。彼は、皮でできたアイスクリーム・コーンのような男根を調べた。よかった。毛は生えてない。いつまで、このままでいられる? 1年? 2年? 彼が思春期に達した時、全ては失われる。そして、彼は、大人の世界に引きずり込まれ、もう戻れない。性的興奮状態や、卑猥な物事の中に閉じ込められてしまう、二度とピュアにはなれない」。この「ピュア」でありたい、というのがレイネの心からの願い。そのためのチェックなのだ。映画からは、そのような「ピュア」な願いは伝わって来ない。なお、原作には、上記の2つの独白に類する文章はない。5章の後半で、レイネは家中の食べ物を捜す。しかし、冷蔵庫は空。あちこち捜して、ようやくコンビーフを1缶と、パイナップルを1缶見つける。これで、その日の夕食は確保できたが、明日からは何とかしないといけない。
  
  
  

翌日の朝、レイネは再び浴槽で息止めの練習をし、その後、職探しにストックホルムにでかける。レイネはガラガラの電車内で陰毛がないことをチェック(1枚目の写真、矢印)。原作では、朝7時51分に起床し、すぐに電車に乗る。電車は通勤客で満員。座ることもできない。当然、チェックもできない。レイネは、市内を歩きながら考える。「食べ物… お金… 仕事… 仕事を見つけなきゃ」。すると、ばか笑いの声が聞こえてくる(2枚目の写真)。キャデラックのオープンカーを前に、中年男が、「キャデラック!」と嬉しそうに車の周りを回っている。そして、前に停まっている障害者用のバンから(2枚目の写真、矢印) 車椅子の女性がリフトで降りてくると、「やあ、ヘレーナ」と声をかける〔日本では、1975年に「ハイエース」の車椅子仕様車(リヤリフトタイプ)への改造が始まり、販売は1981年から。スウェーデンの方が進んでいる〕。女性:「新しい車、買ったの?」。中年男:「1959年型キャデラックだ!」〔製造から17年も経った中古だが、全長5.7メートル、全幅2.06メートルの巨大さで有名〕。「オルガが何て言うかしらね、ヘステル」。中年男はそれに答えず、大喜びで車を発進させる。このヘステルという男、この後、レイネにとって重要なターニングポイントに2度現れるが、原作には全く登場しない。原作にない映画だけの創作はこの男1人だけ。そして、この男の存在が映画の出来を著しく低下させている。車椅子の女性ヘレーナは、バンを降りた建物の3階にあるオルガ・スタジオで働いている。そして、この半分子供みたいなロクデナシ男ヘステルはオルガの息子という設定だ。原作の6章では、レイネは終点の1つ前で下車し、都心に向かいながら、アルバイトで雇ってくれそうな店を捜す。その間に、母は、育児手当をたくさんもらっていながら、レイネには僅かの小遣いしかくれないことへの不満も沸いてくる。新聞社の前を通りかかれば、こんなところで働きたくないと思う。そして、「大きくなったら、印刷屋なんかになるもんか。科学者だ。何かすごく重要なもの、まだ誰も考えたことすらないようなものを見つけるんだ」と大志を抱く。そうかと思うと、歩きながらアイスクリームを舐めながら、「ママは、数年前、医者から痩せ薬を処方してもらったけど、後で危険だって分かった。発癌性?」。レイネの思考は、このように、次々と変わっていく。その時、レイネは、歩道にいる2人の女性に気付く。1人は車椅子に乗り、1人が押している。それを見たレイネは、車椅子を押すアルバイトを思いつく。2人の女性はビルの中に入って行った。レイネは、しばらく待ってからビルに入って行く。映画では、ヘレーナが「リボン」を落し、それを渡そうとレイネは中に入るが、そんな状況ではない。ただ、映画の方が観ていて分かりやすい。
  
  
  

ヘレーナは、建物の中に入って行く時に 家で書いてきた「リボン」を落してしまうが(1枚目の写真、矢印)、気付かずに中に入ってしまう〔前節の最後に述べた〕。リボンのかかっている木製のハンガーには、「オルガ・スタジオ」と書かれている。レイネは、きれいな物なので返してあげようとハンガーにかかったリボン(複数枚)を拾うと、建物に入る。中には、恐ろしく旧式のエレベーターがあった。3階の奥に、ハンガーに書かれた文字と同じ名札のかかったドアがある。最初は、ドアノブにハンガーをかけて帰ろうとしたが、ノブが小さくて落ちてしまう。ドアの中からは口論が聞こえるが、レイネは ドアをそっと開けて中を覗いてみる。口論の原因は、いつも遅刻気味の生意気な若い娘が大幅に遅刻したこと。娘:「何てイヤな臭いなの」。オルガ:「遅いじゃないの」。「時計が壊れてるの」。「仕事は8時からなのよ」。「ムカつくわ。ここじゃ息もできない」。天井から吊り下げられた多くのリボンの陰に隠れたレイネからも、娘が窓を開けているのが見える。オルガ:「あんたが、ちゃんと筆を洗わないからじゃないの」。口うるさい小太りのおばさん:「ハンディキャップがあるヘレーナだって洗ってるのよ。筆は高いんだから。18クローネ〔2500円〕もするのよ。18の3倍の54クローネ、あんたの賃金から引かないとね」(2枚目の写真)。右が口うるさい小太りのおばさん、真ん中が小娘だが、雇用主のオルガが差し置いて、なぜ、おばさんが給料にまで口を挟むのだろう? 矢印はヘレーナ。目が左を見ているのは、彼女だけがレイネの存在に気付いているから。そのレイネは、3枚目の写真のように覗いている。「あんたって、ホントにムカつくわね」。おばさん:「時間くらい守りなさいよ」。小娘は、遂に爆発し、「くたばっちまえ、このクソおばん! 辞めてやる!」と怒鳴って、飛び出て行く。レイネは恐れをなして、そのまま立ち去る。この部分は、原作の7章。そこは、レイネのアパートの居間よりは広く、小学校の教室よりは狭いと書いてある。また、屋根裏部屋だとも〔映画でも、天井が斜めになっている〕。レイネが入って行くと、オルガが「何のご用、坊や?」と尋ねる。その時、17歳くらいの娘が入って来て、オルガから遅刻だと指摘される。この点は映画と同じだが、臭いや筆の話もないし、「おばさん」がしゃしゃり出ることもなく、会話は静かに、2人だけの間で行われる。娘が辞めるのは同じ。娘が出て行った後、オルガは、もう一度レイネに話しかける。「リボンを取りに来たの?」。「さあ…」。「使い走りの子?」。「そうじゃなくて…」。「何かを配達に来たの?」。「何かって、何を?」。「じゃあ、見学に来たの?」。ここに至り、レイネはスタジオがどんな仕事をしているのか理解する。葬儀の時に飾る花輪につけるリボンの文字を書いているのだと。レイネは、「さよなら、どうもありがとう」と言って退散する。
  
  
  

レイネは、アパートに戻る。レイネがエレベーターに乗り込むと、待っていたスティーグがエレベーターに入ってくる〔彼は、レイネの母がいると思ってやって来たが、玄関に鍵がかかっているので入れないでいた〕。「お前か! 何てこった!」。エレベーターから降りたレイネは、「ママはいないよ」と言うが、スティーグは、「あけろ」と命じる。「いないってば」。「いいから、開けるんだ!」(1枚目の写真)。レイネは仕方なく鍵束を取り出し、ドアを開ける。「キャンプに行ったんじゃないのか?」。「延期になったんだ。伝染病だよ。下痢なんだ」。「ママはどこだ?」。「病院。つまり、夜勤ってこと。お年寄りの世話で」。スティーグは、レイネの鍵束からアパートの鍵を奪い取り、「嘘じゃないだろうな」と言って、残りを返す(2枚目の写真、矢印は鍵束)。スティーグは、「ここで待つ」と言って居間に閉じこもる。彼は、缶ビールをどんどん開けて酔っ払う。一方、レイネは、浴室にこもると、スティーグが前に話した、「ダイナマイトで粉々に飛び散った男の話」の部分を再生する。スティーグは腹を立て、浴室のドアを叩いて止めさせようとする。しかし、レイネは返事せず、「僕は、タチの悪い嫌なやつです」の部分をくり返し再生する。激怒したスティーグはドアを突き破り、レイネを罰する(3枚目の写真)。映画のこの部分、レイネは母のストッキングを頭からかぶるなど、不自然な行動が目立つ。レイネは、アパートから飛び出すと、オルガのスタジオのあるビルの通路で、暗い中 車椅子に座る〔車椅子が なぜここにあるのか? ヘレーナは車椅子に乗ってバンから降りたので、車椅子で帰宅したハズ〕。「自由になって二日目の夜。生きるためには、同情してくれる人を見つけないと。その人は、穏やかで善良で無害な人じゃないと。仕事と食べ物が必要だ」。最後の車椅子の部分は、夜、アパートから出た後、わざわざ電車に乗ってストックホルムまで出たことを意味する。非常に不自然な展開だ。原作では、この部分は、少し先の1214章に当たる。ただし、映画とは全く違っている。この日は、レイネがオルガ・スタジオで働き始めて1週間後〔映画では、まだ就職すらしていない〕。レイネは120クローネ〔17000円〕もらえた。レイネは、そこから、母の貯金箱から借りた40を戻し、60を明日から始まる3日間の夏至祭用に封筒に入れ、残りの20を持ってスーパーに買い物に出かける。レイネはそこでばったりスティーグと出会う。原作では、それまで、スティーグは一度も登場しない。彼は、レイネがサマーキャンプに行くことも知らない。だから、スーパーで会っても驚かない。逆に、レイネのカートに缶ビールが入っていたので、「ママに言われて、ビールを買いに来たんか?」と訊かれたぐらいだ。「ハリエットは、夏至祭の間オフなのか?」。「家にはいないよ」。「仕事なのか? 週末ずっと?」。スティーグは、レイネのカートの中身も見る。中には、レイネの好物ばかり。怪しまれると、母はもう買い物を済まし、忘れたものだけを買いに来たと誤魔化す。そしてレジ。示された金額は45クローネだった。レイネは20クローネしか持ってないので払えない。戻そうとすると、スティーグが足りない分は払ってくれた。その代わり、母はいないと言っても、アパートまでついて来る。ここまでが12章。だから、映画のような、スティーグの厳しい命令調はない。13章に入り、レイネは、絵画の本を見ている。そこに描いてある天使とその翼を見て、レイネはいろいろと考え、スケッチブックを取り出して描きさえする。そこに入って来たスティーグがやるのが、映画の冒頭にあった50クローネ札の「プレゼント」。2人の関係は映画ほど悪くないし、その夜のうちにアパートを出て行くのはレイネではなくスティーグ。しかし、14章の最後になり判明するのは、いつも鏡の下に置いてある鍵がなくなっていたこと。「あのクソッタレのスティーグが、1つしかないアパートの鍵を盗んでった」。レイネは、玄関にドアチェーンをかけることにする。昔のホテルによくあったチェーンだ。ただ、これだと、ドアが少し開いてしまう。チェーン・カッターがあれば、簡単に入れてしまうが、レイネにはそこまでの警戒心はない。レイネが心配したのは、自分自身がどうやってアパートに出入りするかだ。最初は、縄ばしごを買うことだったかが、そんなお金はどこにもない。そこで思いついたのが、レイネの部屋が最上階にあることを利用して、屋上から出入りすることだ。この場面は、映画では、オルガ・スタジオでの最初の仕事の後にある。
  
  
  

レイネは、そのままスタジオの前で夜を過したのか? 詳細は不明だが、次のシーンでは、レイネがオルガと話している。レイネは、「みんなから見えように」と言われ、スツールの上に立たされる(1枚目の写真、屋根裏であることが良く分かる)。「ここじゃ、長いこと男性を雇ったことはないのよ」。ヘレーナが「男性とは言えないわ」と口を出す。レイネも「僕、性的に成熟してません」と言う〔こんなこと、子供が口にするだろうか?〕。原作では、こんな「見世物」のようなことはさせない。ただ、経営者であるオルガとレイネが話し合うだけだ。この映画では、何でもオーバーにしたがる。だから、静かで何も言わない従業員も、大っぴらに意見を口にする。小娘の辞職の時と同じだ。反対の急先鋒は、あの、小太りの文句言いのおばん。いろいろ理屈をつけて反対する。最初からレイネの存在に気付いていたヘレーナは、議論に終止符を打つように、「あなた幾つ?」と尋ねる。「僕、ええと…」(2枚目の写真)。「15歳ね」とヘレーナが助け舟(3枚目の写真)。オルガは、「ここに、いてもらう」と宣言する。原作では、戻って9章。レイネは、その日の午前中、スタジオに行き(7章)、その時は、雇われる気などなく出て来た。その後、マクドナルドに行き、夏をどう過ごすか? 「ダグ・ハマーショルドはいつ母とセックスしたのだろう? 外モンゴルに向かうDC8のトイレの中だろうか?」などと考える。そのうち11時になりランチタイムで店が混み始めると、レイネはこれこそ自分のアルバイト先だと思うが、3分も経たないうちに、あまりに大変そうなので その考えは捨てる。そして、市立図書館の前に座ると、想像の世界に浸る(以上、8章)。1時になりレイネはオルガ・スタジオに戻る。オルガに、「さっき来た子ね?」と迎えられる。「突然、思いついちゃって。見習い やらしてもらえない?」。名前を訊かれた後、ここだけ映画が真似た場面が入る。「15歳以上なの?」。「だいたい」。オルガは迷う。「僕、背が低すぎる?」「労働許可証がないから?」。「ここでは、年齢よりも技能が大切なの」。「試しに始めちゃダメ?」。こうして、レイネはスタジオで働くことになった。このやりとりについて、他の雇われ女性は無言を貫いたまま。映画ではレイネに好意を寄せるヘレーナも目立たない存在だし、小太りおばんは登場すらしない。
  
  
  

スタジオはランチの時間。ドラ息子のヘステルから電話がかかってくる。ランチを食べながら、小太りおばんが、レイネに、「オルガの息子のヘステルよ。また、お金をせびってる」と教える(1枚目の写真)。そのあとは、ヘレーナがレイネにリボンにどうやって字を書くかを教える場面。ヘレーナは、レイネに 母親のように接している(2枚目の写真)。原作では、9章の後半だが、レイネに指導するのはオルガ。ヘレーナは何もしない。因みにレイネが最初に練習で書いた文字は、「KAWASAKI」、「YAMAHA」、そして、「HUSQVARNA」。彼は、日本製のバイクに興味がある〔映画では、無視〕。3番目はスウェーデンのバイクメーカー・ハクスバーナ〔1986年にイタリアのカジバに売却、そのカジバも今はない〕。なお、解説で長文を引用した10章は、この翌日の話。
  
  

スタジオからアパートに帰り、ドアを開けようとして鍵束を見ると鍵がない(1枚目の写真、矢印は鍵束)。レイネは、昨日スティーグに追い出されたことばかり頭にあり、その前に鍵を奪われたことなどすっかり忘れていた。レイネは、屋上まで上がる(2枚目の写真、右下に見えるのが、レイネが出て来た非常用通路)。この段階で、立っているのは、スタントではなくレイネ役のトマス・フルーク本人のように見える。このあと、彼は、6階建ての屋上の端まで行き〔柵などない〕、そのまま端を歩いて建物の一番右端にあるバルコニーの屋根に降りる。そして、その上に腹這いになり、その真下にある自分の部屋のバルコニーを覗く(2枚目の写真、矢印)。この間、ノーカット。全景が映っているので、転落した際の保護ネットもない。CGを使う時代でもない。12歳の子役に危険なことをさせるものだ。レイネは、バッグをバルコニーに投げて落とし、身軽になると、建物の角から下を見る〔これも本人〕。そこで、レイネは姿を消し、今度は後ろ向きに、足から降りて来る(3枚目の写真)。いくらなんでも、これはスタントだろう。でなければ、安全ネットがあるとか… レイネは、バルコニーの端に足を掛け、無事に中に入ることができた。原作では、かなり先の16章。先に書いたように、14章で鍵が盗られたのを知り、玄関にドアチェーンをかけ、スタジオに仕事に出かける(15章)。その際、アパートを どうやって出たかは書かれていないが、屋上から出たとしか考えられない。そして、仕事が終わってからの戻り方は書いてある。映画とほぼ同じだが、簡単に降りられる構造ではないようで、予め用意しておいた脚立の上に足を置いてバルコニーに降り立っている。
  
  
  
  

アパートに入ったレイネは、持ち帰ったリボンに字を書いているが(1枚目の写真、「ロニーへ。息子より〔Till Ronnie från sonen〕)、レイネが書いている字は、他の女性が書く字と比べてあまりに稚拙で、これが実用に耐えるとはとても思えない〔これも、映画の欠点の1つ〕。仕事が終わると、レイネはTVを観る。やっていたのは、チャップリンの喜劇。それを観て笑う(2枚目の写真)。原作では、ようやく 「スタジオで、死んだ犬用のリボンに初めて文字を書かせてもらった」段階なので、死者用のリボンを扱える段階ではない。それに、レイネの書く字が実用に耐えるレベルに達しているかについての記述は一切ない。レイネがアパートに入ってすぐにしたことは、浴室に行って、脱いだ服を浴槽に突っ込んだこと。そこには、半分水が入っていて、9着のパンツ、5着のTシャツ、山ほどの靴下、2本のジーンズが入っていた。レイネは洗剤を入れると、トイレ用のブラシで勢いよくかき混ぜる。レイネには、きれいなパンツは2着しか残っていない。「明日は、大洗濯だ」とレイネは思う。「彼は、もともとシャワーが嫌いだった。それに、浴槽が洗い物で一杯なのに、どうやってシャワーが浴びられる?」。さらに、「ここ1週間、暑い日が続いた」とあるので、かなり不潔な状態だ。これまでは、母がいたから良かったが、1人になると こんな一面もある。
  
  

レイネは、TVで観たチャップリンのノリで、スタジオのテーブルの上で、目隠ししてスケボーに乗って踊り、みんなを驚かせる(1枚目の写真)。テーブルから落ちてしまうが、ヘレーナに優しく介抱される。ヘレーナはレイネの額や頬に何度もキスまでする(2枚目の写真)。小太りのおばんは、「ヘレーナは、小さな子に弱いのね」と嫌味を言う。そのあと、レイネがアイロンをかけていると、小太りおばんが寄って来て、「あんた、すぐに 辞めるべきよ」と言う。「僕、ここが好きだ」。「あんたが嫌いなんじゃない。でも目立ちすぎよ」(3枚目の写真)「お給料はもらった?」。「きっと、後で」。「そうでしょ。あんたなんか要らないのよ」。小太りおばんは、レイネの存在が、ヘレーナにも悪影響を与えると、くどくど責める。本当に嫌な女だ。その日の仕事が終わり、レイネがエレベーターまで行くと、中にはヘレーナが乗っていた。そして、「待ってたのよ。いらっしゃい」と優しく声をかける。「レイネ、あなたが大きくなって、その時 私の足が良くなっていたら、私のこと好いてくれる?」。レイネは何とも言えない。このシーンも、映画の創作。何度も書くが、①そもそも、スタジオは単なる職場で、レイネがそこで目立つことはない、②ヘレーナは、これほどレイネが好きではない、③小太りおばんは存在しない。17章では、7月3日の午後、レイネがウトウトしていると、きちんとした身なりの青年がスタジオに入って来る。相手が何も言わないので、オルガが、「〔リボンは〕あなたのお父様に、ですか?」と尋ねる。返事はない。「あなた ご本人のですか?」。「そうだ」。「少し、早過ぎませんか?」。男は、「注文すらできんのか?!」と怒鳴ると、しばらくそのままスタジオ内にいて、何も言わずに立ち去る。原作でも意味不明で不必要な部分だ。映画のヘステル(オルガのバカ息子)は、この男がモデルなのだろう。
  
  
  

ヘレーナと別れた後、レイネは いつも通りアパートの屋上からバルコニーに入ろうとする。しかし、いつもと違い、バッグをバルコニーに落とそうと振っていると、バッグがつかまれた(1枚目の写真、矢印はバッグ)。そして、スティーグが、「別の伝染病なのか?」と訊く。「夏中、家に帰されたんだ」。「なら、ママもじきやって来るな?」。「夜、遅くなるよ」。「なら、座って待とう」。場面は、レストランに変わる。アパートの中には何も食べ物がないので、スティーグが、レストランに連れてきたのだ。食べながら、スティーグは、「一緒にヨットに乗ろう。ママとお前と俺とで。俺のダチと、その彼女も一緒だ」とご機嫌。その後、スティーグは、急に変なことを言い出す。「お前、ウッデバラって言ったっけ? 遠いな」。ウッデバラは母が2ヶ月を過している場所だ。急にその名前が出て来たのでレイネはびっくりする(2枚目の写真)。「てことは、イェーテボリまで汽車で行かないとな」。「夜行だね」。「夜行は遅いな」。「そうだね」。そのあと、2人は、夏至祭を乾杯し〔原作より、テンポが遅い〕、画面が切り替わると、レイネはテーブルに顔をつけて眠っている(3枚目の写真)。それにしても、唐突な「ウッデバラ発言」の真意は全く分からない。原作では、1920章に当たる。最初の重要な記述はレイネの部屋は最上階だが3階にあること。映画の6階の半分だ。レイネは屋上からバルコニーに降りるが、スティーグはバルコニーにはいない。彼は居間のソファで寝ていた。レイネは、「ここで、何してるんだ?」と詰問する。「休んでる」。「どうやって中に入った?」。教えない。「僕らのアパートに入る権利なんかない」。「それが、お客に対する言い草か?」。「ハリエットは、今日、いない」。「ああ、ウッデバラで仕事してるって聞いたぞ」。映画では、突然、ウッデバラが出てくるが、スティーグはどこかで聞き込んだのだろう。そこで、レイネは、「ハリエットは、今夜こっちに着くかも」と嘘をつく。「何時に?」。「もし来るんなら、夜遅く」。「9時25分」。「じゃあ、シャワーでも浴びてこよう」。彼がシャワーに行っている間にレイネがしたことは2つ。1つは、後悔。「スティーグが戻って来ることくらい予想しなくちゃ。頭の中に空気しか詰まってないなら別だけど、鍵穴にチューインガムでも詰めておくべきだった」。2つ目は、脱いであったスティーグの服から鍵を取り返したこと。スティーグがシャワーから出て来ると、「ハリエットはまだか?」と訊く。「多分、夜行に乗ったんだ。だから、待つ必要ないよ」。ここで、映画にもあった「夜行」が出てくる。これなら意味が通る。「寝台車かな?」。スティーグは、お腹が減ったので、食事に行こうとレイネを誘う。レイネは乗り気でなかったが、行き先が、ストックホルムの有名なステーキ店と分かると、ホイホイと付いていく〔タクシーで〕。ここからが20章。レイネは食事中から眠くて仕方がなくなる。そこで、トイレに行き、そこで寝てしまう。スティーグはレイネを起こさずに抱き上げると、タクシーに乗せ、アパートに戻る。その時、レイネは、取り返した鍵を また奪われてしまう。
  
  
  

ヨットの持ち主は、スティーグを責め立てる。「あのガキは、どこで寝るんだ? こんなことになると、予測できなかったのか? ハリエットが無理だと分かった時点で、なんで他の女を呼ばんかった? お前は、俺たちを騙したんだぞ、このインチキ野郎が! あんなガキを連れて来るなんて! ハリエットと寝ないんなら、あのガキとでも寝てろ!」。スティーグも、これだけ罵られて頭に来るが何も言えない。ヨットの先端では、レイネがケチャップの中味を海に捨てている(1枚目の写真)。「あのガキ、俺のヨットのデッキに、ケチャップを振り舞いとるぞ! シミになっちまう!」。スティーグの怒りの矛先はレイネに向けられ、「何するんだ、このクソガキだ!」と怒鳴ると、レイネを海に突き飛ばす。といっても、大海の真ん中ではなく、ヨットは船着場に係留された状態なので大事になるハズがない。しかし、一緒にいたノーラは、心配してシャツを脱ぐと海に飛び込む。レイネには作戦があった。突き落とされたことに対する復讐と、息止め記録への挑戦だ。そこで、スクリューの陰に隠れる。だから、最初にノーラが潜った時、レイネには気付かない。「見つからないわ」。スティーグも心配になる。ノーラが2度目に潜った時、レイネに気付く。しかし、レイネは腕を引っ張られても、行こうとしない。一旦浮上したノーラは、空気を運んできて口移しでレイネに補給する(2枚目の写真)。レイネがぜんぜん姿を見せないので、スティーグは狂乱状態。一方のレイネ、2度目の補給がなかなか来ないので、だんだん苦しくなり、意識を失う。ノーラは 失神したレイネを岸まで泳いで連れて行く。そして、口移しの人工呼吸(3枚目の写真)。意識が戻ったレイネはノーラと抱き合って喜ぶ。この時、濡れたノーラの髪がよく見えるのだが、どうみてもカツラには見えない〔カツラという設定〕。ヨットは出航し、レイネとノーラは話し合う。ノーラ:「結婚する気はないの?」。レイネ:「もし結婚するんなら、ピュアで、天使のような女(ひと)人じゃないと… 人形みたいにね」。「私は、人形と仕事してるわ… ショーウィンドウのマネキンだけど」。「マネキンって、髪がないよね」。「何歳なの?」。「8月14日で11歳」。「誕生日、私と同じね」。「一緒にお祝いしない?」。「いいわね。私の職場にいらっしゃい」。原作の21章。映画化での一番の問題点は、前夜「夜行は遅いな」と言っていて、結局ハリエットが来なかったのに、なぜスティーグはレイネをヨットに連れて行ったのか、よく分からない点。原作でも、その点は不十分なまま。レイネは朝8時に叩き起こされ、9時にはもう出航している。だから、ボートを借りたイエスビョン〔所有者ではなく、借りただけ〕の 「スティーグにたいする口撃」もないし、ケチャップもなければ、レイネの息止めもない。ハリエットがいないことについて、スティーグは、「お前のママは、汽車を降りるのを忘れ、今はラップランドの辺りにいるのかな」と、冗談を言う余裕がある。イエスビョン:「お前さんの連れはどこだ?」。「汽車にハマっちゃってね。こいつは、彼女の子のレイネだ」。イエスビョンは、それ以上 何も言わない。その後、ランチが終わった後、スティーグはレイネの救命胴衣とパンツを両手でつかむと、手すりから海に落す〔映画と似ていないでもないが、動機が違う〕。ノーラがすぐに飛び込んでレイネを助ける〔息止めなどしないので、すぐに救助される〕。ここで、大きく違うのは、飛び込んだ際にノーラのカツラが取れ、つるつる頭がむき出しになること〔映画では、どう見てもカツラに見えないと書いたのは、違いをはっきりさせるため。ノーラがつるつる頭であることは、原作では、非常に重要な要素となる〕。映画にあった「ピュア」という言葉は非常に重要で、44章のテーマとなる。映画では、該当する部分をすべてカットしたため、このシーンに持ってきたのだが、短すぎて意味をなさない。何でも、切り刻んで「キーワード」だけちりばめれば、それで原作が生かされる訳ではない。
  
  
  

アパートに戻ったレイネは、「同じ誕生日のガールフレンドと出合った。祭典の打ち上げ花火でお祝いした」とメモを書く。翌日、花火が好きになったレイネは、ヘレーナと一緒に乗ったエレベーターの中で、「棒の先端で回転する花火」に火をつけ、2人で楽しむ。エレベーターを降りると、ヘレーナが各種の花火の入った袋を持っているのが分かる(1枚目の写真、矢印は花火の袋)。「これ、私が買ったって、誰にも言わないのよ」。その後、2人はスタジオに向かったはずだが、画面は、ピアニストの演奏の横で、天使のように腕を動かすヘレーナを乗せた車椅子を、レイネが曲に合わせて踊るように動かすシーンに変わる〔2人の仲の良さを象徴的に表現?〕。その後、ヘレーナのアパートで、2人はディナーを前にワインで乾杯する(2枚目の写真)。そして、ベッドの中。ヘレーナは、ただ単に、レイネが愛おしくてたまらないだけ。だから、レイネの背中を撫ぜながら、「レイネ、あなたを見た人は、これまで見た中で最高に美しいって思うでしょうね」と囁く(3枚目の写真)。この部分は、原作の18章に該当するが、内容は全く違う。そもそも、ヘレーナは それほどレイネに関心がある訳ではない。しかし、ある土曜日、レイネはヘレーナに旧市街(ガムラスタン)にあるリッダーホルム教会に来るように言われる。参考までに、原作の書かれた1976年の前年の夏に私がストックホルムを訪れた時、対岸からリッダーホルメン島とリッダーホルム教会(高い尖塔)を撮った写真を4枚目に添える〔当時の雰囲気がよく分かると思い、敢えて古い写真を使用した〕。レイネはアパートからここまで4時間かけて歩き、11時に教会の前で会う。暑い日だったので、レイネはくたびれ果て、あちこちも痛い。レイネは、ヘレーナの車椅子を必死に押して教会の中を見せて歩く〔グロッキー寸前〕。教会の中での会話も、ごくつまらないものばかり。例えば、「学校で三十年戦争は教わったでしょ?」と訊かれる。レイネは知らないので、朝鮮戦争から始まり、ベトナム戦争からフランス革命まで思い巡らすが、三十年戦争には辿り着けない。「歴史見学」が終わった後、2人は確かにヘレーナのアパートに行き、そこで昼食をとる。しかし、ヘレーナが一方的に話し、内容はスウェーデンの歴史。レイネは、2時5分にアパートをさよならする。映画と違い、2人の間には、何の暖かい感情もない。「純粋な親切心からヘレーナを殺してしまうべきだろうか?」という一文すらある。
  
  
    

レイネが、スタジオに行くエレベーターに乗っていると、3階で、言い争う声が聞こえる。レイネは、2階と3階の間で、エレベーターを緊急停止させる。レイネが、隙間から見た光景は、オルガのバカ息子のヘステルが、母親から現金の入った箱を奪い、そこからお札を わしづかみにしてポケットに入れる様(1枚目の写真、矢印は箱)。「それ、お給金なのよ」(2枚目の写真)。「車の分割払いに必要なんだ。大事な車だ。ストックホルムにあるキャデラックは2台で、1台は俺のだ。みんなが俺を振り返る。いいか、これは力なんだ。誰もが道を開ける〔私は、昔、イギリスの首相と同じディープ・グリーンのジャガー・ソヴリンに8年ほど乗っていたが、運転していると、周りの車が遠慮してどけてくれることがよくあった。ヘステルにはその「申し訳ないような感じ」が「力」だったのだろう〕。これぞ、まさしく俺の人生だ」。「これから、どうしたらいいの?」。「女を1人首にしろ。あれじゃ多すぎる。ガキには休暇をやって、追っ払え」。この役立たずのドラ息子は、動かないエレベーターを罵り、ヘレーナが買った花火を持って出て行った。原作にないヘステルは、ここで大きなターニングポイントをレイネに強いる。レイネは首にされてしまった。しかし、ヘステルという「実に嫌な男」をなぜわざわざ創りだしたのか、はっきり言って理解できないし、不快感すら覚える。このあたり、原作が大幅にカット 改悪されているので、少し長くなるが、大まかな流れを押えておこう。1つ前の節は、原作の18章と前に戻っているが、ここからは、ヨットで出かけた21章の次からの内容となる。22章。ヨットの返却は月曜の朝。当然、レイネは8時までにスタジオへは行けない。当時は携帯電話もないので、事前連絡もできない。そこで、レイネは火曜日に出勤すると、無断欠勤の言い訳におおわらわとなる。その日の午後、レイネは、スコーグシュルコゴーデン〔ダウンタウンの南南東7キロにある広大な共同墓地〕にリボンを届けに行かされる〔地下鉄で〕。ところが、駅前の花屋に行くと、そんな注文はしてないと言われる。レイネの今日の仕事は配達で終わりなので、スタジオに戻る必要はない。そこで、暇なレイネは墓地の中を散策する。そして、「進化と退化」について考える。ここが子供らしいところだが、レイネはこの2つの言葉を誤解して覚えている。実際にはレイネが思っていたのは、「進化」ではなく「成長」。だから、「進化が逆転したら」と考えた時、死体が若返り、子供から胎児になるといった連想しかできない。23章。翌朝、レイネが起きると幸せな気分に浸る。それは、サマーキャンプから、参加しなかったので小切手が送られてきたからだ。金額は、190クローネ〔27000円〕。大した金額ではないし、スタジオでもらえる週給120クローネと比べても大差ないが、それでも嬉しい。その日、レイネがスタジオに行くと、仕事がなくて暇だった。レイネは暇つぶしに、いろいろと話しかける。「7月に死ぬ人は少ないの?」。これはすぐに否定。「デイリー・ニュースにカラー広告を出したら?」。これは費用がかかり過ぎる。「25年後の2000年って、どんな世界かな?」。みんなは、死んでしまっている思い、沈黙が降りる。仕事がないので、レイネの午後はオフ。郵便局で小切手を無事に現金化する(その前に、母のサインを何度も練習する)。24章。レイネは、ハマーショルド夫人と名乗り、電話で花火店に電話をかけ、18歳以上でしか買えない花火を注文し、息子(レイネ)に取りにやらせると言う〔変声期前なので、怪しまれない〕。花火の代金は168クローネ〔24000円〕。キャンプからの返金が入ったので大盤振る舞いだ。すぐに取りに行くと怪しまれるので、待つ間、キャンプに行っていたら、如何につまらない日々を送っていただろうと想像する。公園で芝居のリハーサルが行われている。レイネは帰宅直前に花火店で、問題なく花火を手に入れる。25章。レイネは、夜、お菓子を食べながらTVを見た後、どこで花火をするか考える。結論として、オルガのスタジオがベストだと考える。そして、26章。 7月18日。レイネは、スタジオで自分のTシャツにペイントする〔KAWASAKI、JAPと書く〕。ランチが終わった後、オルガから、「レイネ、あなたは、バカンスにはどこに行くの?」と訊かれ、「今年は ずっと仕事をしてるから、どこにも行かない」と答える。次の言葉は衝撃だった。「でも、スタジオは今日で閉めるのよ。知らなかったの?」。次に、スタジオが開くのは、8月11日。それまで3週間ある。レイネは、手持ちのお金のほとんどをつぎ込んで花火を買ったことを すごく後悔する。蓄えはほとんどゼロ。そして、明日からは収入もゼロ。これでは生きていけない。悄然としたレイネは、さよならも言わずにスタジオを去る。この方が、映画のような変な人物が、「存在すら知らないハズのレイネを首にする」などと喚くよりは、よほど説得力がある。それに、映画では花火を買うのがヘレーナなので、金策の厳しさも伝わって来ない。アパートに戻ったレイネには、さらなる衝撃が。いつも通り屋上からバルコニーに降りようとするが、足場となる脚立がない。そのため、アパートには入れず、建物の地下室に行く。27章。レイネは、バッグの中に大事に入れている世界珍記録の本をじっくり読み、地下室でそのまま眠る〔映画では、レイネのアパートにはない「赤ちゃんが寝るような高い柵つきベッド」で、レイネがギネスブックを読むシーンがあるが、ここは一体どこなのだろう? 原作に合わせ地下室にしたのかもしれない。しかし、原作と違い、レイネは屋上から簡単にアパートに入ることができる。それなら、なぜ、アパートに行かないのか?〕28章。レイネは、ずっと洗ってなくてバリバリになったパンツを地下室で洗うが、乾いても擦れるので駅までヨタヨタ歩く。「お金がないので、これからどうしよう? 祖母が住んでいるイェブレ〔ストックホルムの北北西160キロ〕までの汽車賃は手持ちのお金の倍〔祖母の家には電話がない〕もする、なら、スティーグの所に行くべきか?」。レイネは真剣に悩む。
  
  

場面は、何の説明もなく通りを練り歩く劇団のパフォーマンスに。「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい、聖母マリアのお出ましだよ。今夜の 聖母マリアの劇をご照覧あれ」。真面目な劇ではないようで、聖母マリアも、すごく派手な格好だ。「聖母マリアと踊りたい方はどうぞ。最初の御仁はどなたかな?」。その言葉に押されたように、レイネはスケボーに乗って中に入って行き、マリア役の女優と手をつないでくるくる回る。その後は、前方回転をしてみせる(1枚目の写真、右後方がマリア)。その「やる気」が気に入られたのか、その夜の公演では、天使の絵パネルの裏に座り、翼を動かす役目を与えられる。そして、公演が終わると、観客への挨拶の途中でマリアはレイネを引っ張り出し(2枚目の写真)、一緒に喝采を浴びさせる。その晩、焚き火を囲んだ劇団員の後ろでレイネが踊っていると、マリアが団長に「次の劇で、子供時代のビョルン・ボルグ、やらせられない?」と訊く。レイネが、その場で真似をしてみると、団員全員にウケる。そこで、さっそく、翌日練習が始まる。指導する演出家は なかなか厳しい。そして、ボルグに似せるためには、髪が長すぎるという結論になる(3枚目の写真)。「レイネ、髪を切ってもらうぞ」。原作の28章の続き。レイネは迷った挙句、ストックホルムまで出て、何となくぶらぶらしていると、緑色に塗られた大きな車輪の荷車が目に入る。そこには、「ブスキャル劇団の『東方の三博士』、ホーミュラ公園、午後3時開演」と書かれていた〔ホーミュラ公園は、ストックホルム中心部で最大の公園=約10ha〕。車輪は道化師2人が牽き、真っ赤なパラソルを持った「聖母マリア」が乗っている。レイネは20メートルほど後をついていく。荷車が都心のストゥーレプランという広場に着くと、マリアは荷車を降りるが、パラソルが手から離れて転がっていく。レイネは飛びついて止める。パラソルを持っていったあげたレイネに、マリアは、「3時に来てね。いい席がお望みなら2時半」と言っただけ。映画のように親しくはならない。29章。レイネは劇団の屋根付き荷車の陰で昼寝をすると、公園の中にある野外劇場の最前列の一番端に座る〔真ん中は埋まっている〕。「芝居はろくでもなかった」とある。劇の終盤になった頃、レイネは腸炎になったかと思うほどの腹痛に襲われる。トイレを捜しに行くが、どこにもない。レイネはやむを得ず、公園の茂みの中で野糞をたれる。次の心配は、どうやって拭くか。葉っぱは小さ過ぎる。幸い、前の店でもらった紙ナプキンがあることを思い出して事なきを得る。しかし、その後も体調が優れなかったので、茂みの中で横になって休んでいるうちに眠ってしまう。30章。レイネは朝4時10分、鳥の声で起きる、まだ胃は痛いが、それ以外に異常はない。喉が渇いているので、花壇の中にある噴水の水を飲み、顔と手を洗う。「まだ、ウンチの臭いは残ってるかな? もう臭いはなくなっていたが、ばい菌はいるに違いない。彼は、手で砂利をつかむと、手を擦り洗いした」。レイネは、草むらから葉を摘んで、歯もきれいにしようとする。4時半になると、劇団員たちが後片付けを始める。レイネも一緒になって、重い木の板の解体を手伝う。レイネは、ペアになって働き始めた男レイフに、劇団で小さな役をやらせてもらえないか訊いてみる。答えは、厳しいものだった。舞台での演技経験がなければ問答無用でダメ。レイネは、その男に個人レッスンをしてもらえないか尋ねるが、後片付けが先だと言われ、トレイラーまで重いワイヤケーブルを運ぶよう命じられる。この先の11行が、次節の前半での「問題のシーン」。31章。翌日。レイネは引き続き劇団を手伝う。今度の作業相手のライナスは、昨日のレイフは単なる舞台係だと言い、レイフから個人レッスンを受けようと思っていたレイネはがっかりする。32章。レイネは、青少年向け演題の一環として、少年時代のビョルン・ボルグ役を与えられて張り切る。しかし、演出家の指導は厳しく、しかも、髪が長すぎるので短くするよう命じられる〔ここだけ、映画と同じ〕
  
  
  

翌朝 早く、レイネは自転車で劇団がいる公園に向かう。そして、マリアのトレーラー・ハウスに入って行くと、マリアが全裸でうつ伏せになって寝ている(1枚目の写真)。それを見て興奮したレイネは、納屋のような場所に行き、下半身をむき出しにして勃起したペニスに触る(2枚目の写真)。二度目に写った時は勃起が終わり、垂れ始めている〔射精はなかった〕。不思議なのは、その後。先ほどの淫らなシーンでは髪の毛は長かった。しかし、団員の前で再びステージに立った時、レイネの髪は恐ろしく短くなっていた〔誰が切ったのか?〕。それを見たマリアが大声で笑い出す。心が傷付いたレイネは(3枚目の写真)、ステージから降りると、置いておいた自転車に乗り、マリアが止めるのもきかず走り去る。前半は、原作の30章の最後の11行。トレイラーまで重いワイヤケーブルを運ぶよう命じられたレイネが、よろめきながら階段を上がってドアを開けると、そこには、聖母マリア役の女性が寝台の上で寝ていた。マリアは青いシャツを着てうつ伏せに寝ていたが、暑くて狭いため、シーツを蹴飛ばし、裸のお尻が丸出しになっている。「次の瞬間、彼は重いコイルケーブルを床に投げ出し、ドアを開けると、外に走り出た。レイフや劇場の解体など、もうどうでもよかった。彼は、遊び場まで駆けて行くと、2つの小さな小屋の隙間に入り込んだ。喘ぎながら、ファスナーを開き、性器を出した。彼に出来るって? まさか」。ここで原作を詳しく紹介したのは、このきわめて短い1文節に対し、「監督の異常ともいえる性的偏向」が顕著に見られるため。まず、1枚目の写真で、マリアは全裸だが、原作ではシャツは着ている。そして、さらにひどいのは、レイネの勃起したペニスを大きく映していること(2枚目の写真)。この写真では、ワザと「勃起」が分かるよう、透明化〔pngファイルなので、背景色がそのまま見える〕して表示した。オーストラリアで児童ポルノと宣言されたのは、このシーンがあるため。11歳(レイネ役のトマス・フルークは12歳)の少年のペニスの勃起を撮影するというのは、芸術の名の元にも許されない行為だと思い、監督を糺弾するために敢えて露に表示した。監督は、この後、もう一度、同じシーンを映し、そこではペニスが勃起を終えて垂れていく様子まで示している。原作の「出来るって? まさか」を映像化するためだが、あまりにひどい。後半は、33章。レイネが髪を短くして戻って来ると、演出の都合で、レイネの出番はなくなったと告げられる。「髪を切ったじゃないか」。「誰も命令しとらん」。レイネは悔し涙にくれる。そして、自転車で立ち去る。マリアに笑われたから去るのではない。
  
  
  

レイネは、自転車をこぎながら考える。「7月24日午後。男たちはみんなクソだ。思い通りにしたいなら1人にならないと。地獄ってあるんだろうか? 分からない。僕みたいな人間はいるんだろうか? 分からない〔地獄の部分は2章のところで述べた。その後の部分は、10章の「この世で唯一の存在」の変形か?〕。レイネは、以前と同じ、「赤ちゃんが寝るような高い柵つきベッド」の中に、茫然として座っている。すると、懐中電灯の光がレイネを照らし出す(1枚目の写真)。次のシーンでは、レイネはパトカーに乗せられている。警察無線でのやりとり。「鍵を失くした子供を保護しました。母親は留守です。どうぞ」。「麻薬の兆候はありますか? どうぞ」。「目がどんよりしています。どうぞ」。「病院に連れて行って下さい、どうぞ」。「まず、隣人から得た住所を当たってみます。スティーグ・ウットレという男で、鍵を持っています」〔この、「隣人から」という言葉から、レイネはアパートの地下室にいたらしいことが分かる/それなら、レイネは屋上から自由にバルコニーに入れるのに、なぜアパートに行かなかったのか??〕。パトカーの警官2名は、レイネをスティーグのアパートに連れて行く(2枚目の写真)。警官から鍵を返せと言われたスティーグは、すぐに持ってくる。「じゃあ、家に帰してやって下さい」。スティーグはドアを閉じようとするが、この時、中から、「スティーグ、誰なの?」という声が聞こえる。それは、何と母の声だった。レイネは、「ママ」と言うと、部屋の中に入って行く。そして、スティーグのベッドの上で半身を起こした裸の母を見てしまう(3枚目の写真)。この部分、原作では3435章に該当する。34章では、レイネは、何とか入れないかと、もう一度アパートに戻る。しかし、バルコニーの上まで来た時、隣のヤンクイストおばさんが、物音に気付き、警察に電話してしまう。慌てたレイネは、警察が来る前に逃げようと、自転車に乗って飛び出し、祖母の家に向かう。しかし、祖母の住んでいるのはイェブレ。そこまでは160キロもある。彼は、平均時速40キロとして、4時間で行けると踏む。今が深夜の0時半なので、到着は4時半だ。しかし、計画はダイナミックだったが、レイネが自動車専用道を走っていてパトカーに捕まったのは、アパートから僅か5キロほど北上した辺り。警官に状況を訊かれたレイネは、鍵を失くしたから家に入れない、鍵はママの友だちのスティーグも持っている、スティーグは、この先のレヴィヤンツェム病院の寮にいると話す〔「盗まれた」とは言わないでおく〕。警官は、途中でレイネにホットドッグをおごってくれ、その後で、病院の寮へ。その後の顛末(35章)は、映画とほぼ同じ。
  
  
  

映像は、トンネルの中をスケボーに乗ったレイネがわざとゆっくり滑り、その後を、タクシーに乗った母が我慢強く追ってくる姿を40秒にわたって流す(1枚目の写真、矢印はレイネ)。「男はクソだ。ピュアな男なんているのかな? 分からない。僕は存在してる? かろうじて。それって重要なこと? 分からない」。アパートに戻った2人。母が「レイネ」と呼びかけても、「ちょっと話していい?」と声をかけても、レイネは黙って自室に閉じ籠もる(2枚目の写真)。ウッデバラで仕事をしているはずの母が、370キロも離れたスティーグの寮で裸で寝ていたのだから、レイネが怒り心頭なのも当然だ。原作では、36章。母は、タクシーにレイネと自転車を載せ、自分のアパートに戻る。お互いに気まずい思いで一杯だ。母は、レイネに見られたこと。レイネは、母にキャンプに行っていなかったことを知られたこと。しかし、レイネには、その「ひけ目」より、裏切られたという「怒り」の方が遥かに強い。レイネは、母が眠ってしまうのを待ち、母の財布から全額365クローネ〔51000円〕を盗み、さらに、母の使わなくなったコンタクトレンズも盗んで、自転車で逃げ出す。
  
  

レイネは、大きな荷物とともに自転車をこいで田舎道を進む(1枚目の写真)。途中で小便をした後、いつも通りの検査をし、終わると独白が入る。「答えを見つけるのは諦めよう。『答えに合った問い』を探そう。それは、死だ」(2枚目の写真)「すべて爆破しろ。2000年になったら起こしてくれ。権力と栄光だ。アーメン」〔正しく訳しているが、意味不明〕。さらに。こうも言う。「もっと強くならないと。鳥肌を立たせるくらい。誰もが僕に従うくらい」。原作では、そんなことは考えない。37章では、自転車は、どこにあるか分からない「子供たちの島」を目指す。そして、自分が遅れてキャンプにノコノコ現れたら何が起きるかを考える。「彼は虐められるだろう。当然だ。同年代の連中は、襲いかかって、突いたり押したりするだろう。僕には、何のチャンスもない。なぜチャンスなんかあるんだ? 決してリーダーにはなれない。何週間も遅れて来たんだ。全部終わってる。小屋は割り当て済み。みんなにはあだ名がついてる。お互いを知り合ってる… すぐに。彼は一人ぼっちにされ、もしかして裸にされ、バッグの持ち物をさらけ出されるかも… なら、もし偽装して着いたらどうだろう? ヘレーナの車椅子を借りて、ゆっくりキャンプに入って行くんだ…」。こんな連想がどこまでも続く。
  
  

レイネがGSの脇の芝生で寝転んでいると、遠くで花火の音が聞こえる。レイネが起き上がると、遠くから田舎道を何十台もの車が列をなして こちらに向かってくる。花火は、そのどれかから景気づけに打ち上げられたものだ。レイネにとって、こんな車列を見るのは初めての経験だ。車列は、反対方向来たから1台の小型車をバックさせて路肩から落とすと、何事もなかったように突き進んでくる。そして、レイネの前を通ってGSに集合する(1枚目の写真)。車に乗っているのは長髪でタトゥーをしている若者ばかり〔ヒッピーではない〕。レイネは、彼らの間をスケボーで走り回る。排除はされないが、歓迎されるわけでもない。若者たちは、車を空ぶかしし、多数で前に進まないように押さえつけ、空回りするタイヤとアスファルトの摩擦で出る白煙を見て興奮する〔環境には最悪〕。レイネも「車押さえ」に参加する(2枚目の写真)。夜になり、一行は郊外の大型のダンスホールに移動する。中では、ロックが演奏され、若者たちが踊り狂っている。長くてゲンナリする映像が続く。ようやくレイネが映ると、彼は、薄汚いTシャツに薄汚れた顔、そして、大きな黒メガネをはめて、少しでも大人っぽく見せようとしている。効果はなく、いわゆる、「壁の花」の男性版だが、これだけ小さく、かつ、汚くては、誰にも相手にされなくても当然だろう。会場には、本物の「壁の花」も1人いる。レイネはその女性にターゲットに、床に落ちていた空の缶ビールを拾うと、飲んでいるフリをしながら話しかけるが(3枚目の写真)、邪険に突き飛ばされただけ。このガラリと雰囲気の違った部分は、原作の38章に当たる。ここでは、車列のことを「ドラッグスター(ドラッグレース専用の改造車)の連中」と呼んでいる。37台の車列の先頭を走るのは赤のサンダーバード。首領はヘスタ、副首領はエーセル。映画と違い、レイネは、なぜか気に入られたようで、サンダーバードの後部席に、女性のエーボンと一緒に座らされる。理由は本人にも分からない。彼らがGSで大騒ぎすることはない。一行が向かった先はダンスホールではなく小さな遊園地。ダンスホールではある程度秩序が見られたが、遊園地では傍若無人に振舞う。強引にタダで入場し、ホットドッグなどの食べ物をタダで奪い取る。遊園地の関係者も、それまで中にいた客も逃げ出していなくなり、暴走族はやりたい放題。レイネは、警察が来るに違いないと思うが、結局 誰も来ない。映画との大きな違いは、レイネの存在が、この日は〔翌日は全く違うが〕認められたこと。
  
  
  

誰にも相手にされないレイネは、トイレに行き、「地獄だ」言って泣く。その時、大便用の個室のドアが開き、「おい、こっちへ来て、手伝え」と声がかかる(1枚目の写真、矢印は男)。「脚が悪い。動けないんだ。おかしいだろ」。レイネは、それが、自分を首にしたロクデナシのヘステルだと気付く。「僕の花火どこ?」。「何が花火だ? 俺の脚を手伝うんだ」。レイネは黒メガネを外す。「僕が 分からない? レイネだ」。ヘステルは謝ることなんかしない。「いいか、見せてやる」。そう言うと、ズボンの裾をまくって木の義足を見せる。「だが、1959年型キャデラックを持ってる。こっちに来て義足を持ち上げろ」。「花火は?」。「トランクの中だ」。レイネに引っ張り起こされたヘステルは、ダンス会場まで行くと、「あそこに1人でいる女は知ってる。あいつのところまで連れて行け。そしたら、一緒に連れて行ってやる」。ヘステルは女にもたれて踊る。鼻つまみ者同士のぎこちないダンスだ。翌日、レイネはキャデラックの後部座席に花火を抱いて乗っている。車は、誰もいない採石場に入って行く。そして、捨石の山の前で停まる。ヘステルは、レイネを乱暴に引っ張り出すと、「ここが終点だ」と放り出す(2枚目の写真)。レイネがどうしたらいいのか分からずにいると、「失せろ!」と怒鳴る。「僕、どうなるの? ママが心配する。僕がどこにいるかも知らない。家まで乗せてってよ」。今度は、助手席に乗ってきた、最低女が「行きな」とレイネの体を突き放すように押す。ここでも、2人は最低のロクデナシだ。「さっさとお行き。戻って来るんじゃないよ」。レイネは、右手に花火、左手にバッグを持っているだけ。自転車とスケボーはどうしたのだろう? ロクデナシの2人は、カーセックスを始める。レイネは捨石の山を登っていく(3枚目の写真)。「8月10日朝。残忍な人殺しめ。今に思い知らせてやる。僕は、強く、厳しく、冷酷で、危険になってやる〔レイネがパトカーに保護されたのは7月24日の夜、その日のうちにスティーグのアパートに行き、さらに、レイネのアパートに戻っている。家出したのは翌日なので7月25日。8月10日に捨てられたなら、車列に会ったのは前日の8月9日。レイネは、7月25日から8月9日までの2週間以上1人でいたことになる! 日付の設定のミスだろう〕この部分は、完全に映画の創作。それも、非常に出来の悪い創作。原作の39章では、遊園地の乱痴気騒ぎの翌朝から始まる。首領のヘスタと副首領のエーセルは、酔いが覚めたのか、レイネを無視する。さらに悪いことに、レイネの自転車を見つけた他の連中が、車に縛り付けて引っ張り、面白半分にバラバラにしてしまう。おまけに、女性のエーボンは、レイネを邪険に追い払う。「とっとと消えな。チビのゲス野郎!」。映画のロクデナシ女はエーボンか? ここから40章。レイネは歩いて逃げ出し、途中で中年の夫婦の車に拾われる。ただ、行く先が違うので途中で降ろされる。万策尽きたレイネは、悪いことをしていると承知の上で、自転車を盗む。盗んだのは、まっさらの10段変速のDBS “Winner” という高級自転車。
  
  
  

最も意味不明の場面。採石場からどうやって辿り着いたのかは謎だが、レイネは鉄道に乗り(1枚目の写真)、怒りに任せて座席をナイフで切り刻んでいる。その後、レイネはストックホルムにある店に入って行く。そこは化粧品を売る店(2枚目の写真)。彼は、そこで誰かを捜すようにウロウロした後、奥の通路に入って行く。最初は店の奥という感じだったが、マネキンが並んでいる辺りから異常となり(2枚目の写真)、その奥にある、「店の奥」ではなく、「しゃれたデザインのドア」を開けると、そこには頭がつるつるになった女性がいて、「入って」とレイネを招く。あまりにも唐突で、意味をなさない。監督の、原作の「部分抜き取り」作戦も、ここまで来ると行き過ぎ。原作を読んだ人には分かるのだろうが、例えば、日本の観客に理解できるはずがない。この場面は、原作の40章の後半と41章を勝手に解釈したもの。40章では、レイネは自転車を盗んだ後、夜になるまでペダルをこぎ続け、ようやく10時にアパートに着く。しかし、母は不在で中に入れない。屋上まで行くが、バルコニーには依然として脚立がないので、中には入れない。レイネは仕方なく古い小屋を見つけて夜を過す。翌朝、起きたレイネが今日は7月28日(月)と言うが、これなら7月25日の家出日とピッタリ合っている。どうみても、映画の「8月10日」は、ミステーク。レイネは自転車でストックホルムに行き、市立図書館に入る。そこで、ダグ・ハマーショルドの本を借りて調べてみると、1961年死亡と書いてある。「こんなの間違いだ… 僕は1964年9月9日まで生まれないのに!」。これで、自分は、国連総長の隠し子だったという希望的観測は崩れ去った。レイネはがっかりして図書館を後にする〔自転車は放置する〕。次が問題の41章。レイネがまずしたこと。それは山ほど食べること。「父を失くしてきたところ」というのが1つの理由。「懐に365クローネ入っている」というのが2つ目の理由。そこで、ストックホルム1の、ブロントサウルスという巨大ハンバーグを食べに行く。そこで、母宛の手紙を書き始める。「お母さんへ。今、ストックホルムに着きました。盗んだ自転車で。アパートにも行ってみました。今、ハマーショルドが1961年に死んだと知ったところです…」。その時、レイネは急にノーラのことを思い出す。映画と違い、原作では、ヨットの中でレイネとノーラでほとんど接触はなかった。それでも、レイネは、ノーラがノーディスカ・コンパニー〔ストックホルム最大のデパート〕の香水売り場で働いていると知っていた。そして、海に落ちた時に助けてくれたことを思い出す。ぜひ会ってみたい。そこで、レイネはデパートに行き、フルネームを知らないので結構苦労するが、運よく、ランチから戻って来たノーラに会えた。レイネは、ヨットの時と違い、髪は短くなり、何日も洗ってないので汚れに汚れていただろうに、「一緒に暮らしていい?」と訊くと、「仕事が終わるまで待って。5時5分前に戻っていらっしゃい」という優しい返事をくれる。映画で、最初に映った化粧品売り場のような店は、デパートの香水売り場だった。そして、奥に入っていった時に出現した美しいドアは、ぜんぜん別の場所にあるノーラのアパートの部屋のドアだった。
  
  
  

意味不明の場面は続く。ノーラはレイネの前で いきなり全裸になる。そして、レイネもズボンを下ろし、ペニスをノーラに見せる(1枚目の写真)。その後、2人はシャワーを浴びる(2枚目の写真)。ベッドインした2人。ノーラが、「あなたが一番怖いものは、何?」と訊くと、レイネは「自分が誰だか分からないこと。存在してないのかも」、と答える。「今は、どうなの?」。「僕を入れてくれてありがとう。他は、どこも穢れて欺瞞だらけ。あなたはピュアだ〔Du är ren〕」(3枚目の写真)。この、ポルノまがいのシーン、原作では状況はかなり違う。対比は、次の節でまとめてしよう。
  
  
  

レイネは、ノーラのつけまつげを付け、口紅を塗る(1枚目の写真、黄色の矢印はつけまつげ、赤の矢印は、分かりにくいが口紅)。そして、金髪の長いカツラをかぶると、全裸になって鏡の前に立ち、ペニスを股に挟んで隠し、女性になった気分を味わう(2枚目の写真)。レイネは、ベッドで横になっているノーラの横に座り、「僕、あなたへのプレゼント、用意したよ。明日は僕らの誕生日だ。どこか旅に出ようよ」と言う。ここまでの時間は、前節で初めて部屋に入ってからのトータルで僅か3分弱〔映画全体の3%〕。何が何だかさっぱり分からない。原作では、4246章までの30ページ〔全体の11%〕が割かれている。順に紹介しよう。42章。ノーラの住んでいるのは、事務所を改造したビルの2部屋。うち1部屋は巨大で、そこには巨大なベッドが置いてある。ノーラはレイネの前で上半身裸になる。乳首にはテープが貼られていて〔職場ではノーブラ禁止なので、テープを貼って乳首が見えないようにしている〕、それをレイネに剥がさせる。「ノーラは美しく、特に、つるつるの頭が素敵だった」〔小学校に入る前にウィルス性の病気で全身の毛が抜けた〕。ノーラは、レイネに「脱いで」と言い、レイネは全裸になる〔この時点では、シャワーを浴びていないので、レイネの体は不潔そのもの〕。ノーラもパンティを脱ぐ。それから2人でボディ・ペインティングを始める。最初はレイネが描く番で、彼は、ノーラの乳首を瞳にして大きな目を描き、睫毛も添える。鼻の下にはヒットラー風のヒゲも描く。ノーラの番になると、彼女はレイネの背中に文字を書いて、何と書いたか当てさせる。その後は、お互いに口紅で相手を塗りたくる。遊びが終わった後は、シャワー。2人がきれいになると、ノーラは、今夜、2人がテオに夕食に招待されていると話す。テオは、同じ建物の中に住んでいる紳士的な老人。2人がテオの部屋に行くと、中国料理の店に連れて行かれる。43章。翌日、ノーラが出勤した後、ノーラの部屋にいるレイネをテオが訪れる。そして、数日後に迫ったノーラの誕生日について口にする。レイネは、テオの部屋に招待される。そこは6部屋もあり、最初の部屋はすべてが暗い紫に塗られた変わった部屋だった。テオは、そこで神の話をし、無神論のレイネから変人だと思われる。44章。こここは、レイネとノーラの会話が中心。長くなるが、枢要部を紹介しよう。レイネが、「僕は一人になりたくない」と言う部分。ノーラ:「私が、あなたを煩わしても?」。「煩わしてなんかない」。「私は、あなたに話をさせようとしてる。だけど、ホントは話したくないとか」。「話したいよ」。「なぜ?」。「気分がよくなるから」。「私を信頼してるから?」。「そう」。「どうして分かるの?」。「そう感じるんだ」。「どこで?」。「全身で」。「特に、どこで」。「おちんちんで」。「恥ずかしがることないのよ。『心』でと言ってたら、立派だった? 『頭』でとか、『ハート』でとか、『足指』でとか」。「『足指』は、きれいじゃないね」。「『きれい』って、どういう意味?」。「人間はブタなんだ。僕は、もっと他に、『きれい』なものがあると思ってる。臭くなくて、胸が悪くならないもの」。「じゃあ、人間は『胸が悪く』なるの?」。「中身がね」。「私も?」。「ううん、違う。あなたと僕は。僕らは、『胸が悪く』ならない『中身』を持った、たった2人の人間なんだ。僕らは、胃の中にも、頭の中にも、どろどろしたものなんか持ってない」。「じゃあ、私たちの胃の中身は?」。「からっぽ」。「食べたものは、どうなるの?」。「白い灰になるんだ。体の中が熱いから、すべて燃えちゃう」。「レイネ、あなたって変わってる」。「あなただって」。「私たち、世界中で、唯一『変わってる』人間なのね」。「僕、ここで暮らしたい」。「もちろん」。「どのくらい、いいの?」。「7億年。そしたら、出ていって」。「じゃあ、あなたは、僕がどうして他の人と話さないか知ってる?」。「理解してもらえないから?」。「それもあるんだけど、奴ら、僕が何を思ってるか分かると、力ずくで変えようとするんだ」。「『力ずく』で?」。「そうだよ。僕、『全宇宙で唯一実在する人間』だって思ってるんだ」。「私はどうなの?」。「あなたは僕の一部。だけど、僕そのものじゃない」。「他に、あなたの一部だって人はいるの?」。「一人も」。この後、テオはどうなんだと訊かれ、レイネは迷う。テオはノーラの友人らしいので、悪く言ったらノーラが気を悪くする。だから、「テオは別なんだ。よく分からないけど。それに、あなたはテオのことが好きだから、『分からない』と言った方がいいでしょ」。「彼とは、そんなに近しくない。ただの友だちよ」。「あなたと僕も『ただの友だち』?」。「いいえ、私たちはお互いの一部でしょ。あなた、そう言ったばかりじゃない」。「じゃあ、恋人?」。「違うわ、レイネ、そうじゃないの。セックスはまた別物」。だから、2人の関係は、友人を超えた心のつながりを持っているが、肉体的関係を伴わないピュアなもの。45章では、レイネがテオの部屋を訪れ、実験の被験者にさせられる。曰く、人間はどのくらいの電気ショックに耐えられるか。電気の強度と、それに対する反応との間に相関性を見出そうとする人体実験だ。原作も、この箇所は失敗だと思う。なぜかと言えば、唐突で、他の章と無関係で宙に浮いているから。46章はノーラの誕生日〔映画と違い、レイネと誕生日とは一致しない〕。朝一番で、お祝いする。そのあと、レイネが盗んだ自転車を放置しておいた図書館に行ってみると、自転車は無事だった。
  
  

そして、いきなり船が写る(1枚目の写真)。前日に、「どこか旅に出ようよ」と言っただけで、翌日、こんな大型船に乗れるものだろうか? しかも、2人は専用の船室まで持っている。半裸姿のノーラが〔この監督、とにかく裸が好き〕、「靴を返して」と廊下に出てくる。レイネは、両手にハイヒールをぶら下げているが、返してくれそうにない(2枚目の写真)〔ノーラに意地悪するレイネは、考えにくい〕。場面は、船内のダンスホール。なぜか、突然、レイネが見ず知らずの中年の男と仲良さそうに踊っている〔映画は破綻し、もう ついていけない。ダブル誕生日でわざわざ船に乗ったのに、レイネは意地悪するし、ノーラは浮気するし、「もう、どうにでもなれ」、といった感じ〕。その様子をデッキの窓から覗いていたレイネに、同じ年頃の少年が近づいて来て話しかける。「あっちにいる俺のダチが女の子を捜してる。手伝ってくれよ、お前、デキそうだもんな」(3枚目の写真)。そして、他の2人に向かいながら、「これから、お前は『死のギャング団』の一員だ」と言う。原作では、47章の前半に当たる。類似点はほとんどない。レイネ、ノーラ、テオの3人は、フィンランド自治領のオーランド諸島行きのフェリーに乗る。テオが、船室からレストランのテーブルまで手配してくれていた。出航して数日後の朝、レイネが1人でいると、12歳くらいの少年が、「金 持ってねぇか?」と言って、汚い手を出す。「ない」。「なら、バナナは?」。「ない」。「今日は、バナナ出なかったのかよ?」。少年はレイネの帽子の縁に、噛んでいたピンクのチューインガムをなすり付けると、姿を消した。映画と違い、ノーラは極めておとなしい。「見ず知らずの中年の男」どころか、テオとすら踊らない。それに淫らな格好もしていない。
  
  
  

この客船は、フェリーにもなっていて、レイネが3人と一緒に、駐車してある車の脇を通って下層階に行き、圧縮した紙束が積んである脇のダンボールを除けると、団のアジトがあった〔この3人は、乗客ではなく、このアジトに隠れている〕。中は狭くて雑然としている。レイネが、「僕は、女の子と一緒なんだ」と言うと、他の3人は笑い、「コーラ飲め、ニッサ」と勧める。「僕は、ニッサじゃない」。レイネは、飲まされる(1枚目の写真、矢印)。「ニッサ、フィンランドのコーラはどうだ?」。「喉は渇いてない」。それでも、また、飲まされる。「もう、行かないと」。「ほら、もっと飲め」。次のシーン。船内の土産物店で免税品の酒を買ってきた男性が映る。手には、免税店のビニール袋をぶら下げている。店を出たところで、団員の1人が、タバコを手に持ち「マッチある?」と声をかける。男が、ビニール袋を床に置いて、マッチを探している間に、通路の下に隠れていた2人のうち1人が、男の袋を持って下に降ろし、もう1人が同じ形の袋を元の場所に置く。すり替えだ。映像的に分かりやすいのは、次のシーンで、トイレでビニール袋を交換している(2枚目の写真、矢印)。真ん中にいるのはレイネだ。アジトには、たくさんのビニール袋が持ち込まれ、中の酒を全員で飲む。へべれけになったレイネが何とか部屋に辿り着いてドアを開けると、ノーラは先ほどダンスをしていた男と一緒にいる。裏切られた思いのレイネは、船から打ち上げる予定だった花火と、バッグを取ると、無言で部屋から出て行く(3枚目の写真)。原作では、47章の後半と48章に当たる。その日の昼のバイキングは食べるものがなかったので、レイネが早々と退散すると、またあの少年と出会う。「チョコ、欲しいか?」。レイネは、もらう。「おめぇ、1人か?」。「ううん、2人と一緒」。「ひでぇな。それじゃ、楽しめねぇ。好きにできんだろ」。「好きにできるさ」。レイネは、「下のディスコに行って、コーク飲まねぇか?」の言葉に誘われて降りて行く。ディスコは閉しまっていたが、少年は合鍵で中に入る。そして、1ルットル入りに半分入ったコーラのボトルを取り出して、「ほら、ニッサ、一口飲めや」と勧める。「僕は、ニッサじゃない」〔ここは、映画と同じ〕。レイネは、味が少し変わっているが、これがフィンランドのコーラなのかと思いつつ飲む〔原作にも書かれていないが、コーラには、何かの薬か麻薬でも入っていた?〕。レイネはボトル半分を全部飲み、異様にハイな状態になる。48章の冒頭、狭い部屋に3人とレイネが座っている。そこで行われているのは酒盛り。完全に酔っ払ったレイネは、へべれけになって254号室に辿り着く。中にいたノーラは、「船酔い?」と心配する。レイネはトイレに直行して吐く。「寝ていい?」。その時点で、船は目的地に着いていたようで、ノーラは、「あなたが眠ってる間に、何かお肉を買ってきてあげるわね」と話しかけるが、レイネの耳には入らない。レイネは、目が覚めて、「私たちは上陸します。なるべく早く戻ります。ノーラ」と書いた紙を見て、初めて理解できた。そして、船室の前には3人がいた。レイネは自分の荷物を持つと、「仲間と一緒になんだ。スウェーデンで会おうね。R.」と書き足し、3人の後について行く。しかし、それは明らかな間違いだった。彼らは仲間でも何でもなかった。上陸していた人々が戻ってくると、彼らの本当の活動が始まった。それは、オーランド諸島で買ってきたお土産のお酒を盗むこと。レイネも無理矢理参加させられる〔この部分は映画と似ている〕。そして、船から下りる時に、分担して内緒で持ち込む酒を 一番たくさん割り当てられる。理由は、他に何も持っていないから。レイネの荷物は担保代わりに押収され、後で、持ち込んだ酒と交換すると言われる。
  
  
  

レイネは、アジトに行って酒を飲む。「お前の女、ここに連れて来られないんか?」。「連れて来られるさ」。「彼女とは、もうヤッたんだろ?」。「もち、毎晩」。「どうやるんだ、ニッサ?」。「普通さ。入れて出す」。「のんべのニッサは、ヤリマンか?」。「僕がヤッてるって思ってないみたいだけど、ヤッてるんだ」。「小便たれのニッサが、やれるもんか。一度もヤッたことないんだろ。お前は、ケツの穴を掘られるだけの ただのクソガキだ。お前は、ただのカスだ」。レイネは悔し涙を流す(1枚目の写真)。レイネは、3人を船内のプールに連れて行き、「僕が何者か見せてやる」と言い、服を着たままプールに入る(2枚目の写真)。「僕の頭を押さえろ」。「分かった。3分だぞ」。レイネは 水に潜り息止めを始める。3人の1人がレイネの頭を押さえる(3枚目の写真)。このシーンは、レイネが苦しくなって大量の空気を吐き出したところで終わる。映画の前半のやりとりは、49章の前半から転用されたもの。違っているのは場所で、4人は船から下りてストックホルムの郊外で待ち合わせる。49章の後半では、レイネは所持金の58クローネを奪われ、地下を走る鉄道の線路まで連れて行かれ、そこで開放される。時間は真夜中を過ぎているので、幸い電車は動いていない。50章。映画とは全く違う内容。レイネは、北にあるソルナの工事中の新地下駅まで線路を歩く。工事中の駅に着いたレイネは、少年たちから掠め取ってきたウィスキーを飲み、そのまま寝てしまう。目が覚めると朝で、もう作業が始まっていた。レイネは動かないエスカレーターを登って地上に出ると、バッグの中の靴下を出し、隠してあった5クローネのコイン2枚〔1400円〕を取り出す。彼は、それでピーナッツ2袋、バナナ1本、ソフトドリンク1本を買う。そして、バスに乗って都心に向かう。市立図書館まで行ったレイネは、そこに置いてきた自転車を回収するが、サドルとライトが盗まれ、タイヤは両輪ともパンクさせられていた。残ったお金は80オーレ〔110円〕。これでは何もできない。レイネはどうしようかと考え、きっと今はもう9月だろうから、オルガのスタジオはやっているに違いないと思う。そして、自転車を引きずって建物まで行き、3階に上がると、スタジオのドアノブの上に、「内国歳入庁、検査官事務所、第三課」と貼り紙がしてある。そして、ドアは開かない。レイネは、次にヘレーナのアパートに行ってみる。ここも応答がないし、開かない。この2つの状況から、レイネが譫妄状態にあるらしいと分かる。
  
  
  

画面は、突然、レイネのアパートの屋上に変わる。テープレコーダーを吊り下げた大きな赤い風船が飛んでいく。「すごいや! 水中で3分間。子供のギネス新記録だ。僕は、ひとかどの人間だ」(写真)。「日々の状況管理、好ましい結果。陰のうと陰けい以外、毛は1本も見えない。これで、また1日生きられる。じゃあね。ほとんど12に近い11歳のレイネ・ラーシャンより〔12歳の誕生日にノーラと船に乗ったハズ!〕。最後の方は、訳の分からないシーンが連続したが、ラストも、訳が分からない。原作は、全く違っている。最終51章。譫妄状態で終わった50章を受け、レイネは病室で目が覚める。そして、ベッドの横で見守っていた母から、盲腸で手術したと告げられる。スティーグは国連軍に入り、シナイ半島にいると教えられる。そして、母は妊娠してはいなかった。今はまだ8月で、学校は始まっておらず、自転車も新しく買ってもらえた。原作の最後の節。レイネは麻酔がまだ効いているのか、眠くなる。そして、「このままずっと眠ってしてもいい、だけど、お願いだから1999年の新年には起こすのを忘れないで。2000年ちょうどに花火を打ち上げたいから」と考える。
  

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